中田厚仁(カンボジアの国連ボランティア)の経歴は?父母や高校大学、名言など

2018年8月2日(木) 22時00分~放送の『クローズアップ現代+』に

中田厚仁さんが特集されます。

カンボジアの民主化に命をかけ、カンボジアで亡くなってしまった中田さん

その経歴や家族、名言について調べてみました。

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中田厚仁さんの経歴、高校や大学は?

出典:naverまとめ

生年月日:1968年1月10日

出身:大阪府東大阪市

学歴:府立大手前高校→大阪大学法学部

中田さんの父親は商社勤務だったため、8~12歳までポーランドで過ごしました。

9歳の時にアウシュビッツ収容所を訪れたことがきっかけで平和に関心をよせ、

国際連合で働きたいと思うようになりました。

高校は大手前高校を卒業し、大阪大学法学部で国際法を専攻しました。

高校も大学も偏差値が高いことで有名なので優秀だったのですね。

中田さんは大学卒業後、1992年7月に国際連合ボランティアに採用され

カンボジアへわたります。1993年5月にカンボジアで実施される予定の

総選挙を支援する為でした。

当時のカンボジアはまだ内戦状態でカンボジア政府とクメールルージュ(ポル・ポト派)

武装勢力が衝突を繰り返している時期でした。中田さんはその衝突が激しい地域へ

赴任を希望し、1992年9月からコンポントム州プラサットサンボ郡の群選挙監視員と

して赴任しました。そして村を周り、選挙の大切さを説明するために、時にはカヌーで

何時間もかけて村へ通うなど選挙実施準備活動を行っていました。

しかし、1993年4月8日、郡内を自動車で移動中フィル・クレル村で何者かに

よって拘束され、中田さんは射殺されてしまいました。

無線が途切れる直前に『クメールルージュが攻撃してきた、撃たれた』と中田さんが

話していたそうなので、犯行はクメールルージュによるものだといわれています。

当時まだ25歳、早すぎる死でした。

直前、プラサットサンボ郡では中田さんが殺害されるという噂が広まり、

『地元の人間から脅迫を受けている』と中田さんがコンポントム州警察署長に

打ち明けたり、前兆はあったものの、結局止めることはできませんでした。

中田さんはプノンペンで荼毘に付され、カンボジアと日本で追悼式が営まれました。

遺族は真相究明を求めましたが、解明されることなく、国際連合カンボジア暫定統治

機構は解散しています。

中田厚仁さんの死の後に生まれたもの

中田さんの死から2年後の1995年、殺害された場所に7つの村を併合した新しい村が

出来ました。中田さんの人柄や貢献は現地の人々の記憶に残り、死を悼みました

彼の名を歴史に残すために、村の名前はナカタアツヒト村になり、カンボジア政府

公認のナカタアツヒト・コミューンと呼ばれるようになりました。

同時に中田さんをコンポントム州の最高名誉州民としました。

できてすぐのナカタアツヒト村に大洪水が訪れ、村は被害を受けてしまいます。

それを知って中田さんの父武仁さんは日本で募金を集め、それを使って村人に

食料を買うように渡しました。

しかし、村人達は中田厚仁さんの志と日本の温かい心を子孫に伝えたいから

学校を作りたい、とナカタアツヒト小学校を設立しました。

1993年には中田さんの遺族が中心となり、海外ボランティアを支援する中田厚仁

記念基金が設立されています

翌1994年には母校である大阪大図書館に中田厚仁記念文庫が設置されました。

25歳という若い命と引き換えに、多くのものが生まれたんですね。

でも、遺族にとっては生きていてほしかった、ただそれだけでしょう。

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